先の記事で私は件の本を買わなかった。そのことにより経済的な負担はなくてすんだ。しかし相手は村上春樹。何もなしですむはずはない。
ひとつは時間だ。あたりまえだが図書館の本は借りたら返さなくてはならない。読書にあてる時間は限られている。今回の場合、上巻を読んでいる最中に下巻もささっと引きあたってしまった。分冊合計約1000頁を3週間位で読了しなければならない。1日およそ50頁、これだけではたいした感じはしない。だが読めない日があれば翌日分に上積みされる。何日か積めばすぐにとんでもない分量になってしまう。このキャリイオーバーはおそろしい。私は自転車も遅いが読書も遅いのだ。でもそうであっても、人気の新刊を手にして読めるということは感謝しなければいけない。なぜなら、読み終えても読み終えなくても期日に返却したその本は再手続するとして最短でも数ヶ月先でなければ再び手元にやってくることはないからだ。読書のサドンデス扱いはつらい。結果的に最初から買っておけばよかったということになりかねない。図書館の貸出し上位本を買わずに借りて読むということはそういうことだ。しかし楽観点もある。読物は読み進むうちにどこかで読者のスイッチが入るように作られている。件の本も秀作の例外に漏れず、あるどこかの地点それ以降は坂道を転げ落ちる様に読み進むことができた。
ふたつめは記憶である。私は本好きだがよほどのことがない限り買わない。理由は金がないのと再読することがないのとの二点。特に読物はそうなる。一度自分を通過していったものをあらためて再び通そうという気にはならない。雑誌は別、それは情報なので必要に応じて取り出しを要する。だから趣味のそれは欲しければ買う。とはいえ小説なども読んでよかったら手元に置いておきたいのは本音。なんて思ってみたりもするが如何せんわが家はせまい。保管場所はない。妄想と現実に関するかじ取りは日常のことである。
みっつめは拡散である。村上春樹の小説は、ジャズやクラシックの音楽がじゃんじゃん登場することでも知られている。これらは彼の本がこれまたじゃんじゃん売れる一因にもなっているのではと考える。物語の展開とともに散りばめられた宝石を読者は幾重にも楽しむことができる。こういう構造の小説は他にはない。もっとも採り上げられている部位は創作上の必然であり結果としてそうあるだけなのだと作者はいう。私は所々に出現する音楽等は、いちいち引っ掛かるのが面倒くさいので読み飛ばしていた。でも前出のように必然で登場しているのならこれら音楽も聴いてみたいそうしたらまた違って見えるかも知れないとも思う。この際登場するあのスカした料理にも手を出してみるか。いやいやいや喰いつきたいが影響は際限ない。画像は最近出た解説本。タイトルがいい。
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